丹生谷 貴志 (著)
『天皇と倒錯―現代文学と共同体』(青土社、1999/08)
読みはじめたときは、「こりゃ何が書いてあるのか私には意味が分からん」と思ったのだが、読んでいくうちに、少しは「ああ、そうかもな」と思ったところもあってよかった、ほっとした。
何が書いてあるのか・書かれていることに何の意味があるのか分からない、というのは、収録されている評論(というのか、これは)で扱われている対象を、そもそも私がよく知らないという理由もあるだろう。
三島由紀夫、石川淳、吉田健一、川端康成、古井由吉、安部公房、坂口安吾、稲垣足穂、丸山眞男、蓮實重彦と柄谷行人、三木成夫。
このうち古井由吉なんて、名前も知りませんでした。ごめんなさい(誰への謝罪か)。
印象に残ったのは、「坂口安吾による金属チューブの罠」と「三木成夫の生物学なんて知ったことじゃない!」の二篇。
後者は、著者の学生時代の生物の先生だった三木成夫の追憶。題名の通り、三木成夫の生物学への言及は殆んど無くて、ただ氏がどんなに変わっていて面白そうな人物だったかが書かれている。それ故に、どんなに氏の生物学的な世界観も面白そうか、といった興味をかきたてられた。
こんど『胎児の世界』(たぶん中公新書でまだ読める)を読んでみようっと。
前者は、そうだなあ。
徹底した他者性ということ、柄谷行人が指摘する様に要するにこれが坂口安吾の仕事を説明できる全てではないかという気がする。安吾の他者性はラディゲのそれ、つまりは、強引に文学的心理的倫理にまで変形された子供の酷薄さから来る神経質な切捨ての結果であるだろうそれとは異なるが、しかし、同じく殆ど生理的な資質にまで達した文字どおりの意味での倫理、つまりはエティックにまで達したそれであるだろう。(191頁)
(※下線部、原文では傍点。以下同じ。)
なんて部分は、全く分からない。「つまりはエティックなんて部分」って、どんな部分?
でも、
人間が理解し合えないものであること、つまりは他者であるしかないこと、これは安吾にとって悲劇的な事実でもなければ心理上生活上の蹉跌でもなく、一つの殆ど物理的、生理的な倫理に他ならなかった。だから彼には他者性がもたらす葛藤といったものが全て嘘か、ないものねだりから来る無意味な懊悩にしか映らなかったのに違いない。(192頁)
という文は、まだ分かる気がする。
このままでは漠然で大雑把すぎるけれど、もっと突っ込むと面白くなりそうだなと思った。
でもやっぱり、(私には)この本に書かれていることに何の意味があるのか分からない、という理由は、安部公房については『砂の女』くらいしか読んだことがないといった私の前提知識の少なさだけでもないと思うんだけど。
例えば、「三島由紀夫はポップSFである」という一篇なぞ、三島の解釈としては面白いところもある。けれども、「で、だからどうなるんだ?」と思ってしまう。それ以上の問題意識や、想像や妄想に繋がらない。
勿論それは私の責任(というほどのことでもないだろうが)でもあるのだが、しかしなあ。
なんというか、読んでいると自由やら生理やら色んな語句が出て来るのだが、それぞれのことばの示している内容が分からん。悪くすると、ことばをフワフワと使って遊んでいるようにしか見えない。それも(私にとっては)悪い意味で。
あー、読書って簡単で難しい。
*****
記録する本が溜まってしまった。
高杉一郎『征きて還りし兵の記憶』
杉森久英『大政翼賛会前後』
阿満利麿『法然の衝撃』(途中で投げ出してたのを読みきった。面白かった)
小島信夫『墓碑銘』(ちょーすんごい)
田中克彦『国家語を超えて』は、もう書かなくってもいいか。
そして相変わらず、記録するのは気が引ける理論的で難しそうな「オオモノ」は避ける、小心者もしくは卑怯者の私。
だって私ってバカだからさあ!(免罪符にもならない、愚かなせりふだ。実に。)
こんどは武田百合子『犬が星見た』を読みたいが、発表原稿が停滞。
こりゃいかんですよ。
あー、それにしても小島信夫。やっぱ小島信夫だ。
FC2 Blog Ranking人気ブログランキングへ
