しかし四段活用か、それともラ変かで、揉めた。
知人に話したら、あっさり「ラ変でしょ」と片付けられてしまった。
未然 きゅうらない
連用 きゅうります
終止 きゅうり
連体 きゅうるとき
已然 きゅうれば
命令 きゅうれ
已然形が気に入らない。
「きゅうるれば」って、どうかしらん。
語感が楽しいのに。
私は田中克彦の「こどもことばのかがやき」が好きだ。
(前に日記で触れた、『法廷にたつ言語』所収。)
ほどよく空いた電車の中で、暖い陽ざしを浴びながら、
五、六歳の男の子が、しきりに隣りに座った母親に話しか
けている。「アツギってかあさん、みんな厚着してるから
だよね」。母親は当惑気味にほほえんでいるだけだ。空い
ているので、男の子の声は車内のすみずみにまで聞こえて
しまう。それにしてもこの子は変った単語を知っているも
のだ。もしかして家には年寄りもいて、厚着がいいとか悪
いとかよく話題になるのだろう、などと思う。
電車が次の駅に着くと、こんどは「エビナってかあさん、
エビがたくさんとれるんだよね」。母親の返事がないもの
だから、「じゃないかな?エビがナイからエビナなのかな」。
こんな小田急線の地名解釈につり込まれているうちに、私
はもう降りなければならなかった。この子は何と頭のいい
子なんだろうと思いながら。(2-3頁)
それから、こう続く。
いや、頭のいいのはこの子にかぎらない。この年頃のこど
もたちは、おとなが永遠に失ってしまった、ことばの獲得
にとっての、あの黄金時代のさなかにいるのだ。ことばは
まだ響きの中に生きていて、こどもはその響きと対決し、
自分なりに解釈し、秩序づけようとして、必死にもがいて
いるのだ。そんなとき、おとなは決して、文字や書物のさ
かしらな知識をふりかざして、こどもの実験をあざ笑って
はならない。おとなの知識は、自らの経験をこえた他力に
よるものだが、こどもの解釈は、ひたすら自力で挑んだ作
品である。(3頁)
私は、こういう感覚のない文を、今年の3月以降、もう読むつもりはない。(目に入ってしまうものは仕方ないけど。)
そして、自分がこれから先書く(であろう)文も、出来るだけそういうものでありたいと思う。
じゃあ、「こういう感覚」って、どういう感覚か。
それをうまく説明する能力すら、今の私には大幅に欠けているんだけど。
あえて書くなら、生まれて、育って、死んでいくという現実の感覚だろうか。
付記:
「今どきそんな可愛いこどもなんかいないよ」というような、アリキタリで狭い世間しか見ていない感想は、おはなしにならない。
追記:
くどいけど、『法廷にたつ言語』は、他のものも本当に良い。
抽象的な話になっても、絶対に現実に戻ってくる姿勢が、信頼できるように感じて、読んでいて面白い。
別に、著者は私に信頼されるために書いているわけではないんだろうけれど、だから肝心な気がする。
(ただし、時に著者の思い込みが強過ぎるように思う時もある。でもそれもきっと、本人は承知だ。)
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