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学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の緩がせなくするを、その志を持すると云う。(吉田松陰、「講孟箚記」安政二年七月二十六日)
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倒錯ってなに(丹生谷貴志『天皇と倒錯』)
2008年03月31日 (月) | 編集 |
天皇と倒錯―現代文学と共同体天皇と倒錯―現代文学と共同体
(1999/08)
丹生谷 貴志

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丹生谷 貴志 (著)
『天皇と倒錯―現代文学と共同体』(青土社、1999/08)


読みはじめたときは、「こりゃ何が書いてあるのか私には意味が分からん」と思ったのだが、読んでいくうちに、少しは「ああ、そうかもな」と思ったところもあってよかった、ほっとした。

何が書いてあるのか・書かれていることに何の意味があるのか分からない、というのは、収録されている評論(というのか、これは)で扱われている対象を、そもそも私がよく知らないという理由もあるだろう。
三島由紀夫、石川淳、吉田健一、川端康成、古井由吉、安部公房、坂口安吾、稲垣足穂、丸山眞男、蓮實重彦と柄谷行人、三木成夫。
このうち古井由吉なんて、名前も知りませんでした。ごめんなさい(誰への謝罪か)。


印象に残ったのは、「坂口安吾による金属チューブの罠」と「三木成夫の生物学なんて知ったことじゃない!」の二篇。

後者は、著者の学生時代の生物の先生だった三木成夫の追憶。題名の通り、三木成夫の生物学への言及は殆んど無くて、ただ氏がどんなに変わっていて面白そうな人物だったかが書かれている。それ故に、どんなに氏の生物学的な世界観も面白そうか、といった興味をかきたてられた。
こんど『胎児の世界』(たぶん中公新書でまだ読める)を読んでみようっと。

前者は、そうだなあ。

 徹底した他者性ということ、柄谷行人が指摘する様に要するにこれが坂口安吾の仕事を説明できる全てではないかという気がする。安吾の他者性はラディゲのそれ、つまりは、強引に文学的心理的倫理にまで変形された子供の酷薄さから来る神経質な切捨ての結果であるだろうそれとは異なるが、しかし、同じく殆ど生理的な資質にまで達した文字どおりの意味での倫理、つまりはエティックにまで達したそれであるだろう。(191頁)


(※下線部、原文では傍点。以下同じ。)

なんて部分は、全く分からない。「つまりはエティックなんて部分」って、どんな部分?
でも、

人間が理解し合えないものであること、つまりは他者であるしかないこと、これは安吾にとって悲劇的な事実でもなければ心理上生活上の蹉跌でもなく、一つの殆ど物理的、生理的な倫理に他ならなかった。だから彼には他者性がもたらす葛藤といったものが全て嘘か、ないものねだりから来る無意味な懊悩にしか映らなかったのに違いない。(192頁)


という文は、まだ分かる気がする。
このままでは漠然で大雑把すぎるけれど、もっと突っ込むと面白くなりそうだなと思った。

でもやっぱり、(私には)この本に書かれていることに何の意味があるのか分からない、という理由は、安部公房については『砂の女』くらいしか読んだことがないといった私の前提知識の少なさだけでもないと思うんだけど。
例えば、「三島由紀夫はポップSFである」という一篇なぞ、三島の解釈としては面白いところもある。けれども、「で、だからどうなるんだ?」と思ってしまう。それ以上の問題意識や、想像や妄想に繋がらない。
勿論それは私の責任(というほどのことでもないだろうが)でもあるのだが、しかしなあ。
なんというか、読んでいると自由やら生理やら色んな語句が出て来るのだが、それぞれのことばの示している内容が分からん。悪くすると、ことばをフワフワと使って遊んでいるようにしか見えない。それも(私にとっては)悪い意味で。

あー、読書って簡単で難しい。

*****

記録する本が溜まってしまった。

 高杉一郎『征きて還りし兵の記憶』
 杉森久英『大政翼賛会前後』
 阿満利麿『法然の衝撃』(途中で投げ出してたのを読みきった。面白かった)
 小島信夫『墓碑銘』(ちょーすんごい)

田中克彦『国家語を超えて』は、もう書かなくってもいいか。
そして相変わらず、記録するのは気が引ける理論的で難しそうな「オオモノ」は避ける、小心者もしくは卑怯者の私。
だって私ってバカだからさあ!(免罪符にもならない、愚かなせりふだ。実に。)

こんどは武田百合子『犬が星見た』を読みたいが、発表原稿が停滞。
こりゃいかんですよ。

あー、それにしても小島信夫。やっぱ小島信夫だ。


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何のための独立か
2008年03月26日 (水) | 編集 |
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アントニオ/トニ
2008年03月26日 (水) | 編集 |
ここ数日、気になっていたニュースに、アントニオ・ネグり氏の日本入国拒否という出来事(事件)がある。
それについて「イルコモンズのふた」に、以下のような記事があり、私のブログは海外のブログではないけれど、発信の役に立てばいいかしらと思って転載。
恥ずかしい話、私はジュディット・ルヴェル氏を知らなかった(今もまだ知らない)。

▼世界が聞いたら呆れる日本のニュースを世界に堂々と発信

それにしても、ネグり氏の来日をめぐって各大学等で開かれる催事について、

京都大学も
◆ 人文研アカデミー アントニオ・ネグリ講演「大都市とマルチチュード」

東京大学も(一応、3月29日のところを見れば)
アントニオ・ネグリ氏講演会

東京藝術大学も(「お知らせ」の2/6掲載のところに)
マルチチュードの響宴 アントニオ・ネグリ氏を招いて

といった具合に、いちおう掲示されてはいる。ところが、
お茶の水女子大学「ルヴェル・コロキュアム」(3月31日)(戒能民江、竹村和子)と、
大阪大学GCOE「〈ジェンダーとコンフリクト〉プロジェクト」+大阪府立大学女性学研究センター「女性学コロキウム」(3月26日)(牟田和恵(大阪大学)、伊田久美子(大阪府立大学))とは、
ネグりさんやルヴェルさんと関係があるようなのだが、大学のHPにも全然出ていないようなんですが。

って、上の催事をいくつか調べて感じたのだが、
大 学 の H P っ て 催 事 予 定 表 が 非 常 に 見 づ ら い

いやはや。

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去年ノーベル文学賞(ドリス・レッシング『草は歌っている』)
2008年03月22日 (土) | 編集 |
草は歌っている 新装版草は歌っている 新装版
(2007/12)
ドリス・レッシング

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ドリス・レッシング (著), 山崎 勉 (翻訳), 酒井 格 (翻訳)
『草は歌っている』(晶文社、新装版2007/12)


ものすごいものを読んでしまったな、というのが読んだ直後の感想だった。
著者のレッシングは、昨2007年にノーベル文学賞を受賞している。
この本は彼女の処女作で、1950年に発表されたもの。
[READ MORE...]
知識は分けても減りません
2008年03月22日 (土) | 編集 |
ちしきはいくらわけてもへらない、へらない。


いくらわけてもへらないのがちしき。

へる、と思うようだったら、その時ほんとうにへっているのは、楽しさだ。


わけてもわけてもふえていくのがちしき。

ふえる、というのはゼニカネではなくて、ひとの楽しさだ。


ひろくわけあたえられないちしき、なんてシロモノは、もうちしきと呼べない。

その辺の石ころだって、けって楽しく遊べるぞ。

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目標だなー(市村弘正『「名づけ」の精神史』)
2008年03月20日 (木) | 編集 |
「名づけ」の精神史 (平凡社ライブラリー (152))「名づけ」の精神史 (平凡社ライブラリー (152))
(1996/06)
市村 弘正

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市村弘正(著)
『「名づけ」の精神史』(平凡社平凡社ライブラリー (152)、1996/06)


この人の『敗北の二十世紀 増補』が読みたくて、でもその前に他のを読んでおこうと思ったのだった。
読んで良かった。

所収の数編いずれも素晴らしいのだけれど、特に映画『水俣の甘夏』(青林舎、1984年)について書かれた「「失敗」の意味」が印象的。
「水俣病患者家庭果樹同志会」(私はこれを読んで初めて知りました)の人たちが、水俣特産の甘夏ミカンを無農薬の有機農業で栽培しようという取り組もうとする。映画はその甘夏ミカンの宣伝を当初の目的にして撮られた。
けれども、撮影の途中から様子が変わってくる。

ところが、その制作過程でこの意図を挫くような事件が起きた。同志会のなかの六戸の農家が、無農薬をめざす活動に逆行するような除草剤を使用してしまったのである。映画はこの事件を見事に「記録」する。それによって、この映画は傑作となった。

(…)「落ちこぼれじゃなかですもんね。失敗したから失敗の会ちゅうわけです。人間だから失敗もあるじゃろう」というそれ自体は変哲のない言葉が、観る者に突きささってくるのは、私たちの生きる世界に「失敗」がいかに成り立ちにくくなっているかを、それが鮮明に浮き彫りにするからである。
 安楽と効率を指向し、そのための計画とプログラムによって覆いつくされた社会生活(…)
 こういう社会では失敗は、機械化された世界に相応しく、いわば事故や故障としてしか現われない。(…)そこでは、機械の故障と違って人間の失敗は負[マイナス]の一方向ではありえないことや、また機械には消耗をひきおこすだけの時間の経過が人間には成熟をもたらしうることなど、考慮の外へと放逐される。こうして失敗は(…)怖れをもって排除されるのである。
 除草剤事件をめぐる同志会の人達の苦悩や葛藤は、この社会の圧倒的な趨勢とは対蹠的な関係を形づくっていく。除草剤使用者すなわち失敗した者を、追放したり排除したりしない関係をいかにしてつくるかというかれらの苦慮と、ついにそれを人間本来の生産的失敗として包摂するに至る経過と、さらにそれを自他に対して公開する勇気とは、失敗などは有害なだけのものとして排斥することによって一身を保守しようとする、現在の実利的世界とはなんと違っていることか。勿論その苦渋にみちた過程は、単線的ではありえない。(…)
(「「失敗」の意味」、100-102頁)



失敗するのは怖いし、つらい。
けれども、失敗したあとだって生き続けなきゃなんない。
そして生きている限り、失敗にだって「意味づけ」は可能だし、むしろ人間は何にでも意味づけせずにはいられない生き物なのであって、失敗ということにすら意味づけしてしまうだろう。

本当に怖くてつらいのは、その「失敗の意味づけ」で苦しむことなんだと私は思っている。

…私はしょっちゅう些細な私事で苦しんでるなー。バカだなあ。
いずれはこの市村さんのようなものを書けるようになりたい。
ああそうだ、私はこんなのを書きたかったんだ。ようやくちょっと気付いた。

勉強することが沢山あるねー。なんて嬉しいことだ。
しかも今はまだ勉強が許される環境にある。なんてありがたいことだ。

ちなみに今は『小さなものの諸形態』を読みはじめた。
なんと石原吉郎が出てきたぞ。ひゃー。


映画の参考はこちらをどうぞ。
http://www.independentfilms.jp/works/dvd_2-12.html

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眞男でなく真男だけど
2008年03月16日 (日) | 編集 |
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みみずく・ふくろう(花田清輝『ちくま日本文学全集60 花田清輝』)
2008年03月15日 (土) | 編集 |
花田清輝花田清輝
(1993/08)
花田 清輝

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花田清輝(著)
『ちくま日本文学全集60 花田清輝』(筑摩書房、1993/08/20)


「みみずく大名」と「眼下の眺め」、「力婦伝」が特に面白かった。
多分それは、「沙漠について」などのはじめのほうのものがピンと来なかったことと、無関係ではない。

「みみずく大名」は、武田信虎とカルモナとが出会う(というか、カルモナが信虎を見る)場面が最高。

 わたしには、鉄砲隊編成の提案を、武田の老臣たちによって、にべもなく一蹴されてしまった信虎の絶望が、どんなに深いものであったかは、カルモナの信州からの手紙のおわりのほうにかかれている、信虎の「ずくひき」に関する短い感想からも、あきらかに読みとられるようにおもわれる。カルモナはいう。「ずくひきというのは、霞網の一種であるが、囮りの鳥に、普通の小鳥ではなく、小鳥の天敵である木菟をつかうところに特徴がある。したがって、小鳥たちは、時ならぬ時にかれらを呼んでいる仲間にたいする愛情によってではなく、夜の世界で、さんざん、かれらに脅威をあたえたくせに、いまや白日の光りのもとで、両眼の明をうしない、完全に無力化している敵にたいする憎悪によって、網にひっかかる、というわけだ。このときばかりに、小鳥たちは、木菟を嘲笑しようとしてあつまってくるのだ。(中略)大きな頭巾をかぶせられた木菟は、とまり木につながれ、ときどき、人間の手で糸をひっぱられるにすぎない。しかし、そのときのかれのおどろきあわてる大げさな動作をみていると、おもわず笑いださないではいられない。かれは、耳をピンとたて、みえない眼をカッとみひらいて、おそいかかりそうな気配を示したが、さっぱり、相手があらわれないので、こんどは、ひどくうろたえだし、うしろをふりむいてみたり、横を向いてみたり、股眼鏡をしてみたり、羽根をバタバタさせてみたりしながら、大騒ぎをはじめるのだ。それが、いろいろな小鳥たちの注意をひき、かれらのかれにたいする復讐心をあおりたて、まんまとかれらを網にひっかからせてしまうことになるわけであるが、これなら、小鳥たちにたいしても、あんまり同情を感じないで、あとでゆっくり鳥料理を賞味できようというものだ。(中略)わたしが、城内の林のなかでおこなわれている、ずくひきの光景を木蔭からながめていると、城主の父親で八十歳になる信虎が、若い侍女の肩につかまりながら、一歩、一歩、リューマチの足をひきずって、わたしのそばへやってきた。そして、しばらく囮りの木菟の滑稽なすがたをみつめていたが、やがてわれわれのまわりをうれしそうに飛びまわっている小鳥たちに視線を転じ、突然、ひとりごとのように、『ずく奴は、おれに似ているわ。鶫や鶉づれにまであなどられて』とつぶやいた。わたしは、なんの気なしにかれの顔をみおろしたが、その瞬間、ゾッとしないわけにはいかなかった。かれは、あらんかぎりの憎悪で顔じゅうをひきつらせ、獣のように歯をむきだし、かすかな唸り声をたてていた。そして、小鳥たちが、網に首を突っこむごとに、ニヤリと気味の悪い笑いをもらした。なるほど、かれは、木菟に似ているかもしれない。わたしは、レオナルド・ダ・ヴィンチが、『木菟でも、梟でも、かれらを嘲笑したものの眼をえぐりぬく』といっていたのを思いだした。」と。(212-215頁)



うおおお!渋い信虎。そして気になるカルモナの書。読んでみたい。
カルモナは後に長篠の合戦で負傷者の医療に携わる。そこで彼を手伝ったのが、信玄の六女の新館御料人(にいたちごりょうにん)・阿松だ。
彼女は織田信長の息子・信忠の婚約者だった。結婚は信玄が死んで成立しなかったのだが、その後も嫁ぐことなく、カルモナの助手となったのだった。
その彼女の飼っていた梟にカルモナは「貴汝(アテーナ)」と名前をつけたという話が『逍遥軒記』にあるという。
「みみずく大名」は、最後その阿松が出家後して信松尼と呼ばれるようになり、死ぬまで戦災孤児や浮浪者の保護、病人の看護につとめて56歳で亡くなったという結びになっている。
展開の見事さ、視点の面白さ、いずれもとってもすごい。


「眼下の眺め」は、狩野永徳の洛中洛外図の話。省略。


「力婦伝」は、吉野川流域の土地をテーマに、そこで採取される丹砂や水銀をめぐって井氷鹿(『古事記』)又は井光(『日本書紀』)、『八幡縁起』、『今昔物語』、『延喜式』の話が引かれる。つまり丹砂と水銀が不老長生のための丹薬だということになるのだけれど、そこから丹生川上神社の神官だった小川弘光が登場してきてからが本題。
小川弘光の仙人修行があり、同時に三種の神器の一つである八坂瓊曲玉の奪取攻防をめぐる南北朝のいざこざがあり、それらの絡み合いが面白い。
タイトル「力婦伝」にある力婦というのは、南朝の自天王と忠義王の二王子の母である山邨御前のことなのだけれど、その力強く逞しい生命感は、たまらなく魅力的。彼女から曲玉を取り返そうとして捕えられてしまった小寺藤兵衛との顛末推測とその裏づけにもほっとする。
最後、小川弘光が北畠教具に二万貫で曲玉を引き渡したというオチには、ニヤリとさせられてしまった。


収録作品:
復興期の精神より
・女の論理―ダンテ
・群論―ガロア
・楕円幻想―ヴィヨン
錯乱の論理より
・テレザ・パンザの手紙
二つの世界より
・沙漠について
・驢馬の耳
アヴァンギャルド芸術より
・仮面の表情
・マザー・グース・メロディ
もう一つの修羅より
・ものぐさ太郎
鳥獣戯話より
・みみずく大名
俳優修業より
・月の道化
随筆三国志より
・烏に反哺の孝あり
日本のルネッサンス人より
・眼下の眺め
・古沼抄
室町小説集より
・力婦伝
・伊勢氏家訓
桃中軒雲右衛門

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女のさとり(夏目漱石『草枕』)
2008年03月15日 (土) | 編集 |
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欧米対立やら幽霊解釈やら(H. ジェイムズ『ねじの回転/デイジー・ミラー』)
2008年03月10日 (月) | 編集 |
ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫)ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫)
(2003/06/14)
ヘンリー・ジェイムズ

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ヘンリー・ジェイムズ (著), 行方 昭夫 (翻訳)
『ねじの回転 デイジー・ミラー』(岩波文庫、2003/6/14)


収録の順番は逆で、「デイジー・ミラー」(DAISY MILLER, 1878)の次に「ねじの回転」(THE TURN OF THE SCREW, 1898)となっている。

どうも私にはイマイチ。
これを読むと、なんだか男も女もバカみたいに思えてくる。

二篇どちらもやや毛色が違っていて、また作品の提出している問題(「デイジー・ミラー」は〈アメリカ的なもの〉と〈ヨーロッパ的なもの〉の対立)、「ねじの回転」は幽霊出現の解釈あれこれ)は有名であるし、歴史的なことを感じたり知ったりするのには良いのだろう。
特に後者は、実際のところ読みながらドキドキしたし、楽しんだ。
でもやっぱり、ふとした拍子に主人公が幼稚っぽく見えたり、思い込みの強さについていけなくなると、その瞬間からもう読むのが億劫になる。

『鳩の翼』や『金色の盃』を読むのはまだ先でいいかなーと思ってしまった。
今の私には時期ではないってことか。

ただし、翻訳はたいへん見事なのだと思う。それは私でも感じるものがあった。

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ヘルンさん(西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳』)
2008年03月10日 (月) | 編集 |
ラフカディオ・ハーンの耳 (同時代ライブラリー (340))ラフカディオ・ハーンの耳 (同時代ライブラリー (340))
(1998/04)
西 成彦

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西成彦(著)
『ラフカディオ・ハーンの耳』(岩波同時代ライブラリー (340)、1998/04)


1993年刊の増補(「ハーンからイエイツへ」)だそうです。

Patrick Lafcadio Hearn(1850/6/27-1904/9/26日)、日本国籍を取得後の名前は小泉八雲(って、今更説明を書くのも恥ずかしいけれど)。
ハーンではなく周囲の日本人からはヘルンさんと呼ばれていたらしい。

16歳の時に左目を失明し、もう片方の眼もおそらく読書のせいで失明に近い状態に時々なることがあったようだ。それくらい悪かったらしい。
年譜を調べると、ギリシアで生まれ、イギリスのダブリンやロンドン、フランスやアメリカのニューヨーク、シンシナティ、ニューオーリンズなど、色々なところで暮らしているらしい。しかし、特に1887~1889年間、フランス領西インド諸島マルティニーク島へ旅行した時の経験が、ハーンには強烈な印象を与えたようだ。上の本にもしょっちゅうマルティニクの名が出てくる。
松江で英語教師をはじめたのは、1890年。そこで小泉節子と結婚したのは翌1891年。
それから熊本、神戸、東京へ。


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「見よぼくら一銭五厘の旗」
2008年03月07日 (金) | 編集 |
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メモ(田中克彦、西茂彦、夏目漱石、ヘンリー・ジェイムズ)
2008年03月07日 (金) | 編集 |
最近の読書記録、たまってしまいそう。
書くのを忘れない…いや、さぼらないように、メモ。

今のところ、
 田中克彦『国家語をこえて』、
 西茂彦『ラフカディオ・ハーンの耳』、
 夏目漱石『草枕』(この歳になってようやく。ああ恥ずかしい)、
 ヘンリー・ジェイムズ『デイジー・ミラー、ねじの回転』。

いまは、イーグルトンの『文学とはなにか』を読んでるところ。
大分前に買ったのに…って、よくある話。
これはまだ数日かかりそう。方法論について、勉強になるなあ。
ふー。
「放っといてくれ!」(アントン・チェーホフ『ワーニャおじさん』)
2008年03月02日 (日) | 編集 |
ワーニャおじさん (岩波文庫)ワーニャおじさん (岩波文庫)
(2001/09)
チェーホフ小野 理子

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チェーホフ(作)、小野 理子(訳)
『ワーニャおじさん』(岩波文庫、2001/09)

おんもしろかった!
ヴォイニーツキイとアーストロフとのやりとりとか、最高!!
あと、年とった乳母マリーナの次のようなせりふ。

 マリーナ   (…)年寄りは子供と同じで、誰かに可哀そうがってもらいたいのです。でも年寄りを可哀そうがる者などおりません。(41頁)



ここを読んでいた時、たまたま横にいたうちの祖母に話したら、「まったくもう!」ってプンスカ怒られた。うくく。
それにしても登場人物がしょっちゅう「放っといてくれ!」って言う。熱い。
いいぞ、もっとやれ!

チェーホフ、すごいなあ。
以前読んだ初期の頃のものより、とてもユーモアがきいているように感じた。
(私ってば偉そうにねえ。)
他のも読みたいな。

*****

今日は西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳』を読んだ。
この人の、最近出た『エクストラテリトリアル――移動文学論2』っていうのが気になって。
あー、でもそろそろまた論文にとりかからないと。
うう。私はこの先、どうなるんだろう…ってまた不安が頭をかすめちゃった。いかんいかん。

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取り調べ(ジョン・ボイントン・プリーストリー『夜の来訪者』)
2008年03月02日 (日) | 編集 |
夜の来訪者 (岩波文庫 赤 294-1)夜の来訪者 (岩波文庫 赤 294-1)
(2007/02)
プリーストリー

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プリーストリー (著), 安藤 貞雄 (翻訳)
『夜の来訪者』(岩波文庫、2007/02)

"AN INSPECTOR CALLS" J.B.Priestley(1947)

以前書いた、同じ岩波文庫のガーネット『狐になった奥様』と同じ安藤貞夫の訳。
著者ジョン・ボイントン・プリーストリー(John Boynton Priestley, 1894-1984)は、その安藤さんの解説によると「イギリスのジャーナリスト・小説家・劇作家・批評家」だそうだ。
内容は、有名な話らしいし、岩波文庫やアマゾンでいくらでも簡単に分かりそうだから、いつもの如く省略。

私が一番怖かったのは、階級意識でゴリゴリのバーリング夫妻でもなく、良心のはたらきが現代的な娘シーラや息子エリック(でも飲んだくれ)でもなく、シーラの婚約者ジェラルドだった。
困っている若い女を見れば憐れみ、婚約者がいてもその女のことを真剣に大事にする。
その女が身を引こうとすれば素直に悲しみつつ別れる。
また、その女がとうとう自殺したと「来訪者」に聞かされれば大いに嘆きもする。
登場人物の中では、まるで一番まともな「良い人」だ。
ところが、そんな男が気持ちを落ち着けるためにちょっと散歩に出て、帰ってきて言うことは、その女の自殺は「来訪者」の作り話なんじゃないか?といったことばだった。
まったくもう、すぐに自分に都合のいいように考えたがる。しかも他人を加害者にしたがる。

ああ、けれどもやっぱり、そういうのが人間ってやつなんだろう。
少なくとも、私の中にはそういう部分がないとは言えない。
でも、次のシーラのことばも大事にとっておこう。

じゃあ、ほんとは何ひとつ起こらなかったわけね。じゃあ、何も後悔することはないし、何も学ぶべきことはないわけね。みんな、まえとまったく同じようなふるまいを続けていけばいい、というのね。(159頁)

(…)あの警部さんがだれだったにせよ、これは断じて冗談ではないのよ。あなたたちも、あのときはそれがわかったし、何かを学びはじめていたのよ。ところが、いまはやめてしまったわ。あなたたちは、以前と同じやり方で暮らしていこうとしているのよ。(〃頁)

考えてみなきゃいけないわ、あたし。(160頁)

 

ところが、その考えることにも、訓練は必要なんだよね。

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