なだいなだ(著)
『神、この人間的なもの―宗教をめぐる精神科医の対話―』(岩波新書、2002/9/20)
現代の科学(精神科も一応、科学的な知に入ると思うので)の専門家から見た宗教の話。といっても、そのもともとはどんな風だったのかってのを、主にキリスト教のイエスとその集団を例に話されている。イエスの生前とか、死後とか。
宗教、特に三大宗教がはじめは集団精神療法のようなものだったのではないかというのは、そうだなあと同感。多神教の世界では病気でも何でも、災厄は多くの神々のせいにされて、へたをすると人間は無責任になった。三大宗教はそれらの神々を上回る唯一神(もしくは類似の考え)を説いて、少なくとも心因性のヒステリー等の病気は治していたのではないか…それは当時からするとかなり大きなことだったのではないか…という話。
精神科医のことばによると、そんなにうまく科学的なひびきでまとめられてしまうのね。
へーと思ったのは、現代人が宗教に入る場合について。
一番多いのが、習慣(親や家が○○教だったとかいうこと)。
次に多いのが、折伏されて入る場合(強い勧誘やら説き伏せられて、って具合)。
「≪不安と絶望≫に後ろから押されて」(45頁)、「切羽詰って」(〃)入る人は、最も少ないらしい。
さもありなんとは思えども、やはりそうか…と。
あと、「T(著者の友人の精神科医―モンド注)「ブッダは人間の不幸を神のせいにしないで、人間自身の中に原因を考えろという。それは超能力をもった部族の神の否定じゃないか」」(54頁)とか、「B(著者―モンド注)「一神教は、神に絶対的な超能力と権威を認めるものではないのかね」/T「別の角度から見れば神を一人にして、永遠のかなたに遠ざけたのさ。(…)神がいるかいないか、論争されるほど遠くに行っちゃった。」(〃)
まあでも、一番印象にあるのは、戦後まもなく著者と上の友人が勤めていた病院にいた、自称天皇の患者の話。当時はあちこちに自称天皇がたくさんいたって部分で、武田泰淳の『富士』を思い出して妙に感じるものがあった。
T「いつまでたっても、かれから天皇だという妄想が取れない。それでずっと閉じ込められていたかれに、おれは病棟の外に出して、清掃の仕事を任せることにした。それをかれに提案したときだよ。自分が天皇だと思っているかれのことだ。《天皇になにをさせるつもりか》と怒り出さないか、おれは心配だった(…)でも、思い切っていってみると、こちらがかえって訝ってしまうほど、実ににこやかに引き受けてくれた。(…)それである日、おれは《あんたはほんとうに天皇なのか》と聞いた」
(…)
T「かれの返事か?《わしは今度の戦争で、天皇として何百万の国民を死なせた。国民から、何百万の夫を、息子を、父を奪った。何百万の家族の家を焼かせた。そのわしが、のうのうと宮城の中で暮らしていられるか。外に出れば、迫害と恥辱と困窮とが待ち受けているのは承知の上だ。でも、なんでも耐えようとこころに決めて、あえて出てきたのだ。少しでも国民に対する罪滅ぼしになればいいと思ってな》だと」
(167-169頁)
この患者がどうしてそうなったのかは、分からない。けれども、一体人間の精神の異常正常ってなんなんだろうね。
そんなこんなで、タイトルがオーソドックスに刺激的な割に、内容は人間について書かれた真っ当な本でした。大事なのは、きっとこんなところ。
T「歴史というのは文献で証明される科学だと思い込んでいるものもいるが、おれはあくまでも推論にしか過ぎないと思う。二千年前に生きていた人間が、ある決断の時にどう考えていたかは、文献などで証明できるものではないよ」/(…)今を考えるときおれは、イエスが今おれたちの現代に立ったら、なんというかを想像する。その反対に、歴史を考えるときは、自分が歴史のその点に立ったらどう感じるかを中心に置く」
(61頁)
誰かの思想を論じるとき、その人の体験やら時代背景やらに理由を求めるのを嫌がる研究者ってのもいるようだし、確かに全てがそういう個別の人生に解消されては意味がない。(意味論がテーマなわけじゃなし。)
けれどもやっぱり、誰かが強く思った何かを追究したいなら、「なんで」「どうして」の一つとして、その人の人生に共感したり同調したりしきれなかったりする位でもいいんじゃないのかね。
自分がその何かに惹き付けられずにいられなかった、その何かの美しさは、そうやって感じ取るものだろうし、美しいと思わなきゃ追究なんてやってらんないのじゃないかと思う。
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