松本健一(著)
『北一輝論』(講談社学術文庫、1996/02)
最後の「〈大日本帝国〉の解体と北一輝」以外は、1970-72年頃に発表された論考。
単行本で1972年、現代評論社より刊行。
まだ3分の2くらいしか読んでいないのだが、これがなかなか面白い。
北一輝について言われる「超国家主義」は、国家至上主義や帝国主義ではなくて、世界連邦のような体制をめざす意味での「超」である、と著者はみている。(ちなみに「超国家主義」の語については、丸山眞男や橋川文三の論を参照しろ、と。)
北は個人の自由を徹底的に追求しようとし、よって彼の主張する「革命」は現実には終ることがないものとなる(この辺は竹内好の『魯迅』を思い出させるなあ)。
しかし北において、自由の追求は、それをはばむ現存の国家からの権力(≒暴力)の奪取という行動として表れる。つまり「権力への意志」。(ここが文学と政治との、自由追求の仕方の差だろうか。)
あー。近代国家体制になって、なまじ〈(個人の)自由〉が当り前のように言われるようになったために、かえって国家の暴力性、国家というのがその性質上もたざるを得ない暴力という側面が目につくようになったのだろうか。目につくから、勢いをもってそれを乗り超えよう(その超え方にはいくつか方法の違いがあるにしても)という運動が起こったのかもしれないな。
と、おそらく中学の教科書にでも載っていそうなことを、ようやく自分で感じ取るに至ったようだ(気のせい?)。
ちょっと面白いと思ったのは、この本では北一輝の革命への情熱の動機(の一つ)を、彼の破局した恋愛にみているところ。浪漫主義者・北一輝か、なるほどねえ。
恋愛ってすんごく個人的なものごとだからなあ。〈個人の自由〉ってのを強く意識するわなあ。
少し不満だったのは、北がどんな社会(あえて「国家」とは書かない)を求めていたのか、つまり彼ののぞんだユートピア像と、それに対照される当時の日本社会なぞについては、あまり触れられていないこと。
当時としては、資本主義化の進められていたような時代に、北はブルジョアといえる家庭に生れたというこの本冒頭付近の指摘は、小さいことだけれど大事だと思うし、もっと突っ込んでほしかった。
でもユートピア像の分析となると、たとえば『日本改造法案大綱』を読解するだけでも別に本が書けちゃうんだろうね…。
なーんて書きながら、未読部分に書かれていたらごめんなさいだな。
目次やパラパラ見た限りでは、大丈夫(なにが)そうだけれども。
なお私は北一輝を普段は「ほくいっき」と読んでいるのだが、他人と話すときは(迷いながら)「ほくいっき」と言って、その後すぐに「きたいっき」と付け足す。もしくははじめから「きたいっき」と言ってしまう。
そんな私は、何度もいうように暴力が嫌いだ。流血沙汰は、革命だろうがその鎮圧だろうが、なんでもいやだ。そして北一輝の書くものは面白い。うーむむ。
石川啄木について、知りたくなった。
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