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学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の緩がせなくするを、その志を持すると云う。(吉田松陰、「講孟箚記」安政二年七月二十六日)
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マドンナじゃなくて(倉橋由美子『聖少女』)
2009年02月04日 (水) | 編集 |
聖少女 (新潮文庫)聖少女 (新潮文庫)
(2008/01)
倉橋 由美子

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倉橋由美子(著)
『聖少女』(新潮文庫)

私が読んだのは、正確には『倉橋由美子全作品』5(新潮社、1976年)で。
知人がすすめるので読んでみたが、いやはやなんとも。

作者は、この前段階の作品として「わたしの心はパパのもの」という小説を書いたそうな。これはチャーリー・パーカーの"My Heart Belongs to Daddy"という唄の題をそのまま邦訳して使ったそうなのだけれど、私は残念ながらチャーリー・パーカーを聴いたことない。

さて、『聖少女』は、娘・美紀による父娘の近親相姦(日記)が一見すると主なテーマ。でも私は、主人公の青年・Kの思いがずっと気になってしょうがなかった。父娘の恋愛を至近距離で見つつ、でも他人という位置が。そしてその少女に嵌ってしまう男心が。ずるいなあと思った。何に対してかは分からんが。

本作に関する「作品ノート」に、次のように書いてあった。

(・・・)作者が立てた仮説は、例えば父と娘が「間違い」ではなくて恋人同士になるという、考えられる限りのいやらしい帰結が、精神の自由な働きの落し穴として生じる可能性があるのではないかということである。これは例の「クレタ島の人はみな嘘つきである」以来の論理的なパラドックスからそれほど遠いものではない。自由に運動する精神がその自由に適当な制約を設けておかなかったためにある地点で足がもつれて倒れることは大いに考えられる。その意味でこれは精神が遭遇する事故のようなものかもしれない。従ってその地点への歩行は危険なのである。あるいはその観念を弄ぶのは危険なのである。それを敢えてやってみせるのは、別にこれぞ果敢なる冒険というほどの意味などなくて、子供に特有の恐いもの知らずとか好奇心とかのせいであるにすぎない。
(『倉橋由美子全作品』5、255頁)



私はこの「聖少女」を読みながら、ふと久坂葉子を思い出した。でもそれは、倉橋由美子と久坂葉子が似ているからではなく、反対だからだと思う。雰囲気は似ている気もする。女のいやらしさとか、荒々しさとか。でも倉橋由美子という人は、きっととても頭のよい人だ。(久坂葉子が頭悪いということでは決してないのだけれど。)

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