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学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の緩がせなくするを、その志を持すると云う。(吉田松陰、「講孟箚記」安政二年七月二十六日)
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N・N~S・S(見田宗介『まなざしの地獄』)
2009年02月24日 (火) | 編集 |
まなざしの地獄まなざしの地獄
(2008/11/07)
見田 宗介

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見田宗介(著)
『まなざしの地獄』(河出書房新社)

1973年に発表された本書タイトルの論考と、1965年の「新しい望郷の歌」を併録。
1968~69年の、あの永山則夫の連続ピストル射殺事件を中心に、当時の日本社会を考察したもの。
すごく勉強になった。時代についても、社会についても、考え方についても。

1965~1970年頃について、こんな記述がある。

 家郷をあとにする青少年は、ひとつの解放への希望を抱いて、「尽きなく存在する」意思として都会に足をふみ入れる。
 一方現代日本の都市は、このような青少年を要求し、歓迎するという。けれどもこれはうそである。少なくとも正確ではない。都市が要求し、歓迎するのは、ほんとうは青少年ではなく、「新鮮な労働力」にすぎない。しかして「尽きなく存在し」ようとする自由な人間たちをではない
 ところがこの「新鮮な労働力」はその一つ一つ、解放への生を求める自由な主体としての人間、ましてや青少年である。
(19頁、斜字体部分は原文傍点。)


「金の卵」としての彼らを、人手不足の雇用者たちは、優遇し、ちやほやし、「はれものにさわるみたいに」大切にするだろう。だがあくまでもそれは彼らが、「やる気をもった家畜」として忍耐強く働く〈若年労働力〉たるかぎりにおいてである。
(21頁)


「金の卵」としての彼らの階級的対他存在にとって、このような存在ののりこえへの意思、生の無限性への意欲は、たんに当惑させるものであり、不条理な攪乱要因にすぎない。雇用者たちにしてみれば、このような少年たちの「尽きなく存在し」ようとする欲望くらい、不本意で腹立たしいものはない。「こんなにも大切にしてやっているのに、どこまでつけあがる……。」道徳教育への要求。「近ごろの若い者はわからん。」
(22頁、斜字体部分は原文傍点。)



さて、いまの日本はどうなのか。
「やる気をもった家畜」すら歓迎されていないのではないか。
と、私はこんな風に、考えたり書いたりする時間も、体力も、財力も、(今のところ、しかも少々なものだが)あると言える。どん底の貧乏じゃあない。
でも今貧乏じゃないからといって、貧乏が好きなわけでもないし、褒め称える(「貧しいって立派だよね!」みたいなことを言うひともいそうだ)つもりも全くなく、清貧はいいかもしれないが行き過ぎた貧しさは恐ろしい。そうはなりたくない。が、どうしたらそれが避けられるのかも分からない。

あー私は何を言いたいのだろう。

ともかく、六十何億円の家を持つ首相がいる一方、「おにぎりが食べたい」と書いて餓死した人がいるようなこの国は、おかしい。ということだけはいつも思っていると言いたい。


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