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学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の緩がせなくするを、その志を持すると云う。(吉田松陰、「講孟箚記」安政二年七月二十六日)
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ブラトノイ(『内村剛介ロングインタビュー』)
2009年03月20日 (金) | 編集 |
内村剛介ロングインタビュー内村剛介ロングインタビュー
(2008/07)
不明

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『内村剛介ロングインタビュー 生き急ぎ、感じせく―私の二十世紀』(陶山幾朗(編集・構成、惠雅堂出版)

読んでから大分間があいてしまったけれど。

繰り返しになりますが、言語それ自体に興味があるんじゃない。言語という素材を使って、人がどういう表現をするかということ。言語という万人共通の資料をどのように使うか。文法的に言えば、シンタクシス(統辞論)なんでしょうが、しかしあなたもおそらく経験があるように、書いていてこれはどうにも俺の文章じゃないという事態にしょっちゅうぶつかるでしょう。それで、人は書き直し書き直しする。あれはやっぱり自分のリズムに合うまでやってるんですね。他人から見れば、意味は同じだからそんなことどっちでもいいじゃないかとなるかも知れないが、でも、どっちでもよくはないんで、そのとき人は自分固有の文章を探しているんですよ、それは誰もそうしているはずです。そういうことを僕は他人の文章について見て行きたいわけ。
(75-76頁)


この人の、こういう志(といっていいと思う)はとても素晴らしいし、学びたい学ばねばと思う。のだけれど、同時にその「見て行」き方が強すぎて、弱い人間につらくあたることもあるのだろうなと思った。勿論、つらくあたるのが悪いということではない。
たとえば、ソ連に抑留された日本人たちの「帰国(ダモイ)」について述べたところ。

 ええ、全員が知っていました(ソ連が1947年に死刑を廃止していたのを、戦後当地に抑留されていた日本人たちが知っていたということ―引用者注)。そして、本当はわれわれは死んでいたはずなのに、そのことは棚上げして、生きているという事実だけを踏まえてですね、「生き残ったからには日本へ帰らなきゃいかん」というのが彼らの発想なんですよ。たしかにソ連が万事において乱暴極まりない国家であったとしても、しかし両国の間で戦争という事実は紛れもなくあったのだし、そうだとすれば、そのことに対する責任は日本人の誰かが負わなければならないだろう。言うならば、それが運命というものなのではないか、と僕には思えました。
 そのとき彼らは「いや、それはわれわれの意志ではなかった。命令によって、軍に狩り出されてやったことなんだから、そこで人を殺そうがどんな非道をしようが、それは命令した人間に罪があるのであってわれわれは関係ない」という論理を持ち出すわけです。しかし、「いや、そうではない。命令した人間はもちろん罰を受けるけれども、しかし実際に手を下した当人も実行犯として裁かれるのは当たり前なんだ。それが戦争の論理というものではないか」と僕は主張したように思います。それに、あなた方は二言目には「敵側のことは知っちゃいない、帰るんだ」と言うけれども、いったい敗戦国日本に帰ってどういう風に自分の存在を釈明するのか。今日は雛祭り、明日は端午の節句と指折り数えてばかりいる前に、自分は果たして今何故ここにいるか、そしてその場所をどうして日本に移さねばいけないのか。移ったなら移ったで、打ちひしがれた日本国民に対してどんな申し開きをするのか、それを考えるべきではないかと。日本に帰る権利があるので帰ってきた? そうは行きませんよと。
(143-144頁)



ここには色々な問題があげられているから、簡単に感想めいたことを書くのは危険だけれど、少しだけ。
まず、上では被抑留が「実際に手を下した当人も実行犯として裁かれ」た、その罰として捉えられているように思われる。では、
・罰だとして、それは適当かつ正当なものかどうか。(少なくとも、ソ連が日本人抑留の「理由」として主張した内容の不当性は、内村も書いている。)
・罰を受けることは当然として、しかし望郷が人の心に起こることは非難されるべきものかどうか。
・日本に「移ったなら移ったで、打ちひしがれた日本国民に対してどんな申し開きをするのか、それを考えるべき」とはいうけれど、そんな余裕がある人ばかりではないだろう。むしろ、そんな余裕がない人のほうが多かったのではないか。(だからといって、そうした人たちを私が好きなわけではないけれど)そうした〈人の性情〉とでもいった部分は、否定されるしかないのだろうか。
・・・こうした3つをふと思った。

内村という人は、とても頭がよく、立派で、きっと私はこういう人になりたいのだろう。
けれども、みんながそうなれるわけではなく、またそうなる必要もないし、違った素晴らしさも人にはあるということを忘れてしまいそうだ。
私は人を責めたくないし、責められたくない。ああ、この順番は逆だ。まず責められたくない。そうだろう、そういう保身の気持ちがありますよ。
責めたり責められたりするような、要するに何かしらの大失敗なんて、世の中になけりゃいいと思う。
でもそうはいかないということも分かってる。

ブラトノイの章が面白かった。


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