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学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の緩がせなくするを、その志を持すると云う。(吉田松陰、「講孟箚記」安政二年七月二十六日)
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日常と偶然について
2009年09月21日 (月) | 編集 |
日常(安定)と偶然(不安定)は、どちらがよい悪いということではなく、またどちらが物事の関係性に開かれている閉じているということでもない。
問題が起きるとしたら、日常も偶然も、人間がそれらの語を使うというところだ。
どちらの語も、関係の拒否や否定の理由・言い訳に使うというところだ。

関係の拒否や否定をできるのは、大体が強い人だ。
というか、結果的に拒否や否定をできた人、した人が強い人だ。
そして弱い人は、自分との関係を拒否したその強い人を憧れる限り、また恨んだり憎んだりするだろう。

勝手に恨んだり憎んだりすればよいって?そりゃそうだ。
ただし、その無関心も恨みや憎しみをなくしはしない。つまりとても悲しいことだ。
恨みや憎しみを抱く側には倫理があるが、無関心な人には倫理も関係ないからね。

というわけで、日常やら偶然やらを論じる意味が、少なくとも倫理的な意味があるとすれば、人がそれらの語を「『物事の関係の否定や消失』の言い訳」として使う、という部分を突いていただきたい。

そして言い訳ってのは、たとえどんなにおかしなところがあっても、言っている当人に言い訳したいという欲が消えない限り、主張され続ける。そういうもんだろう。

強い人には、強いだけの人には、わかるまいよ。
私は弱くないけどね(周囲の人のおかげで)。

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