モンドの読書日記

都内の某大学へ通う学生による、日本や海外の文学関連書籍を中心とした読書記録。

大江健三郎同時代論集〈7〉書く行為 (1981年)大江健三郎同時代論集〈7〉書く行為 (1981年)
(1981/05)
大江 健三郎

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大江健三郎(著)
『大江健三郎同時代論集〈7〉書く行為』(岩波書店、1981/5/25) 

これも図書館で借りた。
花田清輝を読もうとして、結局こっちに気が移ってしまった。

この人の書いたものを、私は避けてきたわけだけれど、もっと早く読めばよかった。
でもそれもきっと「遅すぎる事なんて 本当は一つもありはしないのだ 何するにせよ 思った時が きっとふさわしい時」(真島昌利『泣かないで恋人よ』 )。
印象にあるのは、たとえば「ハックルベリー・フィンとヒーローの問題」のこんなところ。

マーク・トウェインはハックルベリーのために、黒人ジムが、じつはすでに自由に解放された黒人だったという抜け穴を用意してやって、かれが結局は、地獄へ行かなくてもすむように工夫したのであるが(「ハックルベリー・フィンとヒーローの問題」、44頁)



ハックがジムの逃亡に協力したことについて、作者トウェインが上でいう「抜け穴を用意し」たのを、大江は上のように受け止めている。
私はこれまで「トウェインも当時の環境から全く脱け出ることは、色んな事情があったのかもしれないが、やはり難しかったのかもしれない」なんて考えていたのだけれど、上の引用部分を読んだ時にハッとした。
そういう見方もあるんだ。なんて素晴らしいんだろう。
(ただし大江は、「ハックルベリーがやがて、誰からも抜け穴を準備されない地獄への道をたどるであろうことは、ほぼ疑いをいれない。」ともきちんと述べている。きちんと、っていうのは、この物語を読んだことがある人なら分かるだろう。)

上は一つの例だけれど、この本を読んでいて感じたのは、大江という人は〈書き手〉と〈書かれたもの〉との繋がり又は断絶を、とても強く意識しているのだなということだ。
書いた小説は確かに〈自分〉が書いたものだ。けれども、そこに書かれている人物や生き物は、書き手である〈自分〉と同じものではない。
トウェインがハックを救済した、ということの単純な見方は、書き手である作者が自分勝手に物語を動かしている、ということになる。けれども違う。書かれている人物が、その書き手から強く独立しているからこそ、書き手ははっきりとそれに向き合って物語を進めることができるんだろう。
そういう風にも考えられるはずだ。

とまあ、こんな風に書いておきながらナンだが、小説が書かれたときの作者の考えとか、裏話的な事実なんて分からない。
けれども、それは問題じゃないだろう。それが問題じゃないことだってあるだろう。何かを読むっていうのは、そういうことだろう。
あるのは事実でなくて解釈だけ――ってニーチェも言っていた(気がする)。

もう一箇所だけ、この人自身のはなし。

 なぜ作家は、しだいに性的なるものと暴力的なるものに関心をひかれてゆくのか? 性的なるものと暴力的なるものにひきつけられるかわりに、そのようなものと無関係な高みで、人間の肉体の【もっと高尚なところ】、人間の行為のもっと立派なものをのみ主題にえらんで、文学をつくりあげることはできないのか?(「作家が異議申し立てを受ける」220頁)

 僕は、人間の性的なるものにかかわっての情熱には、本質的に自己否定の契機がある、と考えているものである。二十世紀後半の人間は、かれの日常生活、社会生活から、さけがたい事故をのぞいて、できうるかぎり悲劇的な契機をつみとろうとしてきた。いまや、それがやがてかれの首をしめることになるかもしれぬ、五分、五分の確率だと知りながら、ただ情熱にかりたてられて、真っ暗闇の前方に跳びこむ、というようなことを、一般に人間はあえておこないはしないだろう。ところが、性的なるものの落し穴のみは、なお残っているのである。(231頁)

(…)暴力的なるものを、なぜ、自分の小説に導入するか、という問いかけにはもっと答えが明瞭である。いまやわれわれは、地球を一瞬にしてふきとばすやもしれぬ核の暴力、また生きるための水と食物のすべてをじりじりと汚染しつつある公害の暴力のなかに、きわめて微小な弱者、いまにも毀れてしまうかもしれぬものとして生きている。しかも日常生活の表層に関する限り、われわれは人間のいかなる時代においてよりも、暴力からやさしく庇護されているかのようである。(…)その本質的な深みと、日常的な表層のあいだの【ずれ】こそが、作家の認識の中心にせまってくる時、どうして、暴力的なるものが、かれの人間の表現のための主要な方法、重要な手がかりとならないであろうか?(234-235頁)



(※【】部分、原文は傍点。)

ところで、この本の中にはどうやら特定の人物や小説等について言及されていることが何ヶ所もあるのだけれど、残念なことに、私はその殆んどが分からない。
分かったら、きっともっと面白かったことだろう。
いずれ分かるようになる時が来るかしら。

実はまだ最後のほうの「書かれる言葉の創世記」「消すことによって書く」は、これから読むのだが、おそらくそれが一番いまの私にとって関心のある話なのではないかと思っている。

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2008/02/29(金) 03:33:32 | URL | みんな の プロフィール #-[ 編集]
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